豊臣政権と徳川幕府を比べると、前者の方が中央集権的で、後者の方が地方分権的というイメージがある。これはロジスティックス(兵站)の面からも説明できる。
豊臣秀吉も徳川家康も天下人として諸大名に号令して戦を行った。しかし、その実態には相違があった。秀吉の場合、兵三百を出せと言われたら、大名は基本的に兵三百を出した。ロジスティックスは石田三成ら奉行衆が手配した。その代わり米を某所に送れ、材木を某所に送れと命じられた大名もいた。
この成功例は小田原征伐である。しかし、朝鮮出兵では破綻した。石田三成への反感に象徴される文治派と武断派の争いも、性格的に合わないだけでなく、ロジスティックスが回らなかったことへの現場の武将の怒りがあった。
ここからは十万もの大軍のロジスティックスを統一的に回すことには無理があるという教訓を引き出すことが自然である。そのために徳川家康は上杉征伐に際してはロジスティックスを各大名が行うようにした。
これは真っ当な方針である。同時代のヨーロッパでは連隊レベルでロジスティックスを回した。ナポレオンによって師団が生まれ、ロジスティックスは師団レベルで回すようになり、現代に至っている。中央集権的な全体最適よりも部分最適の方が効率的な資源の配分になる。
官僚には方針の失敗を認めたくないという醜い習性がある。奉行衆からすれば朝鮮出兵のロジスティックスの破綻は、悪条件が重なったためで、統一的なロジスティックスという方針自体の欠陥ではないと理屈をこねたくなるだろう。
唐入りは秀吉本人が陣頭指揮する計画であったが、諸事情で渡海はなされなかった。現地最高指揮官不在で物事を進めなければならないため、統一的なロジスティックスが上手くいかないことは当然である。また、制海権も朝鮮に奪われている状況では計画通りの輸送にならない。
そこから統一的なロジスティックスは誤りではないと強弁するかもしれない。この考え方の違いが、関ヶ原の対立の背景になった。これが加藤清正や福島正則らが石田三成を政権から排除しようとした理由である。
秀吉の死後、家康が筆頭大老として天下を預かった。その家康が諸大名に号令した戦争が上杉征伐であった。そこでは秀吉の戦争と異なり、ロジスティックスは各大名に任せた。この方針が徳川幕府でも続いた。ロジスティックスを各大名に任せるならば、大名家毎に自己完結させる必要がある。それ故に徳川幕府は間接支配的になった。
このロジスティックスを大名任せとする方針は参勤交代にも引き継がれた。その代わり幕府は街道という各大名のロジスティックスのためのインフラを整備した。徳川家光と大名の関係は家康の頃以上に専制君主的なイメージがあるが、間接支配という点は本質的に共通する。
さて上杉征伐ではロジスティックスは各大名に任されたために、その準備で出陣が遅れた大名家も出た。小早川家や長宗我部家、脇坂家らである。徳川家康は見切り発車で出陣した。その結果、出陣が遅れた大名家は西軍に取り込まれてしまった。これが家康にとって、ついてこられない大名を葬り去る意図的なものか、想定よりも西軍が大軍になって狼狽したかは歴史の解釈の面白いところである。
その後、石田三成が挙兵し、大阪方を掌握すると、上杉征伐軍は大名任せのロジスティックスを貫徹できなくなった。九州の黒田長政や四国の藤堂高虎、加藤嘉明のように領地が大阪の先にある大名にとって敵地を通る輸送は絶望的である。それどころか、細川家は領地が西軍に攻め込まれた。このような状態ではロジスティックスを大名任せにできない。徳川家が差配せざるを得なくなった。それでも豊臣家の奉行衆のように諸大名のリソースを一元管理する方法はポリシーに反する。上から目線で余っていそうなところから足りなそうなところに回すようなことを命じても、現実は上手く回らない。諸大名から反発を受けるだろう。
そこで家康は斜め上の解決策を採った。東海道の諸大名の領地を徳川家が預かることでロジスティックス問題を解決した。自分の領土のことですので、徳川家が一元的に管理することは問題ない。このエピソードは山内一豊の心意気を示すものと描かれがちであるが、単なる精神的なノリではなく、経済的な意味があった。
いつまでも司馬遼太郎の歴史観ではないということである。司馬遼太郎の明治の歴史観は批判されるようになったが、関ヶ原も見直しが必要である。