林田藩の初代藩主・建部政長の父親の建部光重は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属した。関ヶ原の合戦の前哨戦となる安濃津城の戦いに加わっている。毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂、長宗我部盛親ら3万の軍勢が安濃津城に籠城する富田信高ら約1700を攻めた。安濃津は三重県津市である。
信高が撃って出たところ、敵兵に囲まれ、危機一髪となった。そこに一人の若武者が救援に駆け付けた。その若武者は信高の妻であった。妻に命を助けられた信高であったが、後に妻の罪で改易されている。妻の甥の宇喜多左門は坂崎直盛の家臣を殺害したが、その左門を匿っていた。
関ヶ原の合戦が東軍の勝利に終わると、光重は所領を没収された。しかし、義父池田輝政の取り成しで許された。池田氏との関係が建部氏の力になった。
安濃津城の戦いの舞台となった津には慶長13年(1608年)に藤堂高虎が伊予から転封し、津藩が成立する。伊勢国と伊賀国の22万石である。後に32万3千石になり、幕末まで続いた。高虎は何度も主君を変えた人物として知られている。所属組織への滅私奉公が流行らなくなった21世紀に評価されて良い人物である。
高虎は津城を大改修し、輪郭式平城とした。本丸跡は現在の三重県津市丸之内で、日本庭園になっている。藤堂高虎の像がある。初夏には紫陽花が咲く。堀には鯉が泳いでいる。北に安濃川、南に岩田川が流れ、外堀の役目を果たした。
この高虎の養女が小堀遠州(小堀政一)の妻になった。その次男の小堀正之は建部政長の娘を妻とした。
関ヶ原の合戦後も光重は豊臣秀頼に仕え続けた。山城国の由岐神社の拝殿や摂津国の多田院、大和国の吉野水分神社など秀頼の寺社再興の作事奉行になっている(木村展子「豊臣秀頼の作事体制について」日本建築学会計画系論文集511号、1998年)。光重が奉行となった寺社は地盤を石垣で組むことなど共通点が指摘される(河合晴香、重枝豊「由岐神社拝殿の平面・軸部・組物における寸法構成に関する一考察」平成25年度 日本大学理工学部 学術講演会論文集)。