Gustave Emile Boissonade de Fontarabieは明治時代の司法分野のお雇い外国人である。民法の編纂や拷問廃止の意見書などの功績がある。しかし、民法典論争が起こり、明治政府がドイツ法に傾斜し、晩年は不遇だった(大久保泰甫『ボワソナアド 日本近代法の父』岩波書店、1977年)。

彼は1825年6月7日にパリ東郊のヴァンセンヌ市で私生児として生まれた(大久保泰甫「ボアソナードの知られざる史実」朝日新聞夕刊1971年6月15日)。1910年に没した。

彼が31歳の時、父母の婚姻による準正ではじめて父方の姓Boissonadeを名乗ることになる。それまでは母方の姓からGustave Boutryと名乗っていた。しかし、両親は長い間同居しており、必ずしも不幸な生い立ちだったわけではないようである。彼が父を誇りにしていたことはWigmore宛第5書簡からもうかがえる。

一方で彼はde Fontarabieという姓を用いることには消極的であたとされる。FontarabieとはGascogne地方の地名で、Boissonade家は貴族の出で代々そこの名家だったようである。Boissonadeは熱烈な反封建論者であった(福島正夫「旧民法と慣行の問題」『福島正夫著作集4』勁草書房、1993年、78頁)、自己の名から貴族的な要素を除去しようとしたのではないだろうか。

グルノーブル大学在職に「遺留分及びその精神的経済的影響の歴史」(Histoire de la reserve hereditaire et de son influence morale et economique)を書き、1867年の人文社会学学士院賞を受賞した。パリ大学在職中には「生存配偶者の諸権利の歴史」(Histoire des droits de l’ epoux survivant)を書き、1871年の同賞を受賞した(石井芳久他『日本近代法120講』法律文化社、1992年、52頁(市原靖久))。前者は現代でもこの分野の参考文献として挙げられる(Ourliac et Malafosse, Histoire du droit prive, t. Ⅲ (le droit familial), Paris (1968) 496.)。

彼はパリ大学のprofesseur agregeであった。これをパリ大学教授資格者と訳す文献もあるが、単に教授資格取得試験concouss d’agregationを通ったagrege d’universiteとは異なり、既にprofesseurである(野田良之「明治初年におけるフランス法の研究」日仏法学1、1961年、48頁)。任期10年で再任可能。

各講座を担当する正教授professeur titulaireが病気その他の理由で出講できないときに代講するピンチヒッターであり、講座に空席ができた時正教授に昇進する有資格者であった(潮見俊隆、利谷信義『日本の法学者』日本評論社、1974年、32頁(大久保泰甫))。その地位を投げうって彼は日本政府の招きに応じた。