津城の本丸には丑寅三重櫓、戌亥三重櫓、伊賀櫓、月見櫓、太鼓櫓があった。丑寅櫓跡に模擬三重櫓が建てられ、復興丑寅櫓と呼ばれている。
かつて関ヶ原の戦いの前哨戦の安濃津城の戦いが行われた。安濃津城の戦いでは林田藩の初代藩主・建部政長の父親の建部光重が西軍で戦った。西軍は毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂、長宗我部盛親ら3万に対し、信高らは約1700と寡兵であった。しかも、その城兵の八割近くが津町の義勇兵で、町民も籠城して戦った津町の総力戦であった。
城兵は奮戦したが、津の町も城の建造物も大半が焼失した。木食応其の調停により開城となった。それでも西軍を津で足止めした功績は大きい。もし西軍が伊勢を平定したら、尾張に攻め込むことができる。そうなれば関ヶ原で雌雄を決するという家康の構想自体が成り立たなかった。
関ヶ原の合戦が東軍の勝利に終わると、信高は加増された。開城しながらも西軍足止めが評価された点は京極高次と重なる。戦略目的があっての戦いであり、「生きて虜囚の辱を受けず」の軍国主義ではない。ひたすら根性で頑張る昭和の精神論でもない。逆に西軍に与した光重は所領を没収された。しかし、義父池田輝政の取り成しで許された。池田氏との関係が建部氏の力になった。