林田力 だまし売りをなくしてSDGs

『東急不動産だまし売り裁判』著者

マンションだまし売り被害を消費者契約法で解決した裁判闘争を描くノンフィクション『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』著者。だまし売りをなくすことでSDGsの持続可能な消費に寄与したいと活動しております。
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経済

19世紀問題 近代のはじまりを再考する

関眞興『19世紀問題 近代のはじまりを再考する』(PHP研究所、2019年)は19世紀の世界史を語る書籍である。民族問題や紛争・テロ、経済格差という現在の世界的な問題の種が19世紀に蒔かれていたと指摘する。そこには国民国家という発想が大きい。

19世紀を語るためには、18世紀末からの産業革命や市民革命から始める必要がある。これらは人類史の進歩と位置づけられるが、多くの人々にとっては生存が脅かされることになっていたとする。既存の相互扶助のコミュニティーや精神が解体され、一人ひとりの人間が自分の力で生きていかなければならなくなった。

この問題を克服するために1930年代に国家が経済を主導する経済政策が実践された。第一にケインズ経済学を背景にしたフランクリン・ルーズベルト米国大統領のニューディール政策。第二にドイツのアドルフ・ヒトラーの国家社会主義。第三にスターリンの社会主義計画経済。それぞれ思想的基盤は異なり、互いに批判しあう関係にあったが、国家主導の経済という点で似通っている。19世紀の生んだ国民国家というフィクションの呪縛の結果だろう。

国家主導経済は官僚の無能や怠慢によって無駄や非効率を生むことが明らかになり、20世紀末からは市場を重視する新自由主義が広まった。産業革命に匹敵するIT革命と呼ぶべき自体も進行中である。21世紀序盤は19世紀序盤と重なると言えるだろう。この環境変化を国家共同体の力で管理しようとする20世紀的発想を繰り返すならば進歩がない。市民革命が夢見た個人が縛られずに自由に生活できる社会を目指したい。

FACTFULNESS(ファクトフルネス)

Hans Rosling, Ola Rosling, Anna Rosling Ronnlund著、上杉周作、関美和訳『FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』(日経BP社、2019年)は世界を正しく捉える見方を提示する書籍である。現代人は10の思い込み的な本能によって世界を正しく見ることができていないと指摘する。

最初の分断本能は、世界が先進国と途上国、金持ちと貧乏人など分断されているとする見方である。しかし、統計では乳児死亡率や就学率は途上国も含めて向上している。人類の「ほとんどはグローバル市場に取り込まれ、徐々に満足いく暮らしができるようになっている」(43頁)。日本では進歩派も保守派もグローバル化を格差拡大と脊髄反射的に拒否する傾向がある。しかし、透明性のある市場ルールが入ることで、業界の既得権が廃れ、消費者の選択肢が増え、生活しやすくなっている。

次のネガティブ本能は、世界はどんどん悪くなっているという思い込みである。しかし、「多くの人は、上の世代が経験した悲惨な出来事から目を背けがちだし、それを下の世代に伝えようともしない」(84頁)。これは経済大国の「成功体験」を持つ日本で深刻だろう。実際は昭和の日本は目の前の問題解決のために我慢や負担を強いられ、頑張ることを強要する集団主義や精神論根性論が横行していた。昭和に比べれば個人が格段に暮らしやすくなっている。

本書は世界が良くなっているという肯定的な姿勢である。全体的に見て、そうであるとしても、個々には深刻な不合理や不正があるだろう。私にはマンションだまし売り被害という個別的な経験がある(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』)。全体的に良くなっているという話で有耶無耶にされたらたまらない。

この点も本書は考慮している。本書は「悪い」と「良くなっている」は両立すると指摘する(89頁)。これは納得である。深刻なマンションだまし売り被害があること、一方でマンションだまし売り被害を消費者契約法で対抗できるようになったことは両立する。

エスタブリッシュメント 彼らはこうして富と権力を独占する

オーウェン・ジョーンズ著、依田卓巳訳『エスタブリッシュメント 彼らはこうして富と権力を独占する』(海と月社、2018年)は英国のエスタブリッシュメント支配の実体を明らかにし、処方箋を述べた書籍である。本書は英国を対象とするが、世界全体に通用する。

本書のエスタブリッシュメントは自分達を地位を守らなければならない有力者の集団である。具体的には政治家やメディアや金融機関などの企業経営者、警察官僚などである。彼らの目的はエスタブリッシュメントそのものに奉仕することである。この目的のために活動しており、思想は手段に過ぎない。

確かにエスタブリッシュメントは新自由主義思想を広める傾向にあるが、彼らは新自由主義の真の信奉者ではない。市民には自己責任を押し付ける一方で、大企業には補助金や税制上の優遇措置を与え、銀行は巨額の補助金で救済する。エスタブリッシュメントに奉仕するためならば新自由主義と真逆のことをする。

英国は新自由主義ではなく、富裕層と企業のための国家社会主義の国である。ここからすると無制限な財政出動を正当化する現代貨幣理論Modern Monetary Theory; MMTなどはエスタブリッシュメントに都合の良い理論になるだろう。

本書の表紙には「国に「たかって」いるのは本当は、誰か?」とある。新自由主義よりも、国家利権のぶら下がりがエスタブリッシュメントの権力の源泉ではないか。それ故にエスタブリッシュメントを批判するならば、新自由主義批判よりも利権批判の方が効果的ではないか。

本書は対策として、民主的な権利と権力を平和的な方法で取り戻す民主革命を提言する。しかし、その内容の多くは累進課税の範囲の拡大など社会民主主義や福祉国家、ケインズ経済学の大きな国家的な制度改革である。それらには新味がない。

ユニークな主張は公共サービスの公有化である。官僚の手を通した再国有化ではなく、利用者と労働者による公有化である。これは20世紀末からの改革を否定し、20世紀後半に戻す反動ではないという点で新味がある。官僚の手を通した国有化は改善にならない。民営化しても官僚的体質が残っていれば、かんぽ生命のノルマのような役人的点数稼ぎが起きる。

一方で利用者と労働者による公有化が公共サービスを取り戻すことになるかは難しい問題がある。利用者と労働者は利害が対立するためである。利用者の立場からは国鉄民営化でサービス精神の向上を感じる。

また、本書は政府がグリーン産業のような産業政策に積極的に介入することも指摘する。これも望ましいことであるが、政府が適切な有望分野に投資できるかという疑問がある。シェアリングエコノミーへの対応を見ると、逆に成長の芽を摘むことにならないかという懸念である。

エスタブリッシュメントの唱える新自由主義はエスタブリッシュメントに奉仕するための御都合主義であると批判できる。しかし、新自由主義が20世紀末に広がった背景には土建国家など20世紀後半の官僚主導の大きな政府の機能不全がある。新自由主義は社会的需要に応えるものであった。民主革命が改革前の20世紀後半に戻すだけならば魅力はない。どれだけ新しい内容を打ち出せるかが問題である。

なぜ大国は衰退するのか 古代ローマから現代まで

グレン・ハバード、ティム・ケイン著、久保恵美子訳『なぜ大国は衰退するのか 古代ローマから現代まで』(日本経済新聞出版社、2014年)は大国が衰退する理由を経済学の見地から説明する書籍である。古代ローマ、中国明朝、スペイン、オスマン帝国、日本、大英帝国、ユーロ圏、カリフォルニア州、米国を分析する。

本書は衰退の原因を経済的不均衡とする。この経済的不均衡は説明が必要である。多くの日本人は経済的不均衡と言えば貧富の差を思い浮かべるかもしれない。貧富の差の拡大が体制を動揺させ、文明を衰退に導くとの主張は新味がない。むしろ、本書が念頭に置いているものは財政の不均衡である。つまり、財政赤字が大きくなると衰退するという。現代貨幣理論Modern Monetary Theory; MMTとは真逆の主張である。

しかし、これは実は大変な問題がある。発展する大国は、発展の負の面として貧富差が生じる。この発展の負の面に手当てしようとすることは、むしろ真面目な為政者が取り組むことである。ところが、そのための福祉国家の拡大は財政赤字を拡大させる。それでも対策を進めるために中央集権化した統治や軍事独裁に進みがちである。これが経済の不均衡を解決できない国家の政治的停滞であり、衰退の原因になる。

目の前の問題を解決するためにコストを度外視してはならず、財政均衡を常に考えなければならない。大きな政府の官僚による経済統制が滅亡の主因になる。アメリカン・スタンダードが表れている。

おしゃれ嫌い 私たちがユニクロを選ぶ本当の理由

米澤泉『おしゃれ嫌い 私たちがユニクロを選ぶ本当の理由』(幻冬舎新書、2019年)はユニクロが消費者に支持される理由を説明した書籍である。それは消費者が服に余計な金や時間を使いたくないと思うようになったためである。ユニクロは「見た目」をよくするための服ではなく、「くらし」をよくするための服を提案し続けてきたとする。

まずユニクロが消費者に浸透されているという現状認識は同意する。しかし、「日本の国民服となったユニクロ」という表現はどうだろうか。国民服と言えば太平洋戦争中に使用された日本国民男子の標準服を連想する。本書は国民に広く浸透した服という意味だろうが、戦時の繊維資源の節約から強制された国民服とは意味合いが異なる。

消費者が服に余計な金や時間を使いたくないと思うようになったとの分析は同意する。服の買い物では店員との余計なコミュニケーションもおっくうである。乗せられて見栄で余計な買い物をする消費者の多い。角田光代『紙の月』(ハルキ文庫、2014年)では買い物依存で多大な借金をする女性を描いている。その虚しさを多くの消費者が認識するようになったことは良いことである。

一方で、服で個性を競うことに疲れたとの指摘は微妙である。個性を競うことに疲れて皆と一緒で良いとなったならば国民服に結び付く。個性を競うこと自体に疲れたというよりも高級ブランドを競うことに疲れたと位置付けるべきだろう。価格と品質が比例するという愚かな意識から脱却した。高級ブランドではなく、自分が着て楽しめる服を選ぶようになった。

現代貨幣理論Modern Monetary Theory; MMT

現代貨幣理論Modern Monetary Theory; MMTは通貨発行権を有する政府の支払い能力に制限はないため、財政赤字を気にせずに積極的に財政出動すべきとする主張である。正直なところ、私は魔法の壺や打ち出の小槌に期待する発想に危うさを覚える。私は1+1=2であり、2-1=1でなければならないという感覚が強い。「入るを量りて出ずるを制す」の健全性の方が合っている。

MMTの説明は、貨幣は交換価値を表象するものではなく、借用書であることを理解させることから始める。これは人類史の長い時代に流通していた鋳造貨幣や兌換紙幣を無視する議論であり、Yesとは言いにくい。議論の妥協として現代の信用貨幣が借用書の性格を持つことは合意できるだろう。

ここまでで議論に長い時間がかかり、それなりのエネルギーを費やしがちである。多くのMMT論者の悪いところは、信用貨幣が借用書の性格を持つことが認められれば、MMTが認められると考えてしまうことである。当然ながら借用書ならば無制限に発行しても良いとはならない。借用書通りに返済できなければ破産する。

これに対してMMTは国家には徴税権があるため、返済は可能と主張する。しかし、徴税権に制限を課すことはマグナ・カルタ以来の立憲主義の伝統である。国家が徴税権を無制限に行使することは国民の人権侵害である。結局のところ、国民から好きだけ奪えるから、国家が無制限に通貨を発行できるという主張になる。魔法の壺や打ち出の小槌は存在しない。

MMT論者は財政を家計や企業会計の常識とは異なる、全く別のものと考えているのだろう。これは国家の仕組みを上手く使えば皆が幸せになるというケインズ経済学や社会主義計画経済のアナロジーに見える。

現実は、ケインズ経済はスタグフレーションを克服できず、計画経済は破綻した。ケインズ経済や計画経済による国家の公共投資は建設業など既存の産業に偏りがちである。官僚の利権の思惑が入り、固定化する。成長分野へのリソースの移動の阻害要因になり、経済を衰退させる。就職氷河期世代の私はケインズ経済や計画経済の機能不全を目の当たりにして育ち、新自由主義経済が勃興する背景を理解している。このため、MMTどころか、ケインズ経済の有効需要の創出すら眉唾に感じている。

逆に日本におけるMMTの熱烈な信奉者には、昭和の高度経済成長期への郷愁を感じてしまう。昔の日本は、それなりにまともだったが、今の日本はどうしようもないというものである。右肩上がりの経済成長が終わった環境変化を認識せず、新自由主義が入って日本経済がおかしくなったとする感覚があるのではないか。

しかし、昭和の日本が良かった訳ではない。昭和にはブラック企業という言葉はなかったが、今の基準ではブラック企業に相当する企業は珍しくなかった。パワハラという言葉はなかったが、今の基準でパワハラに相当する行為が横行していた。

戦前に戻ろうとすることだけが反動ではない。昭和の戦後に戻ろうとすることも反動である。むしろ、戦後を直近の一昔前の時代と認識する世代には、逆に戦前は遠いために新鮮さを持ち、昭和の戦後に戻ろうとする方に強い反動イメージを抱きたくなる。

戦前のような全体主義への嫌悪感を共有することは大切である。それに嫌悪感を抱くならば、戦後の集団主義にも嫌悪感を抱かなければならない。「戦前はダメだが、戦後は良い」では既得権擁護の守旧派になる。インターネットで買い物ができ、情報収集と情報発信ができ、仕事もできるようになりつつある時代を享受している身には「昔は良かった」は悪夢でしかない。

21世紀に残る昭和の悪癖を根絶することは社会を変えたいと思う人々の課題である。MMTが広く受け入れらえるためには昭和の土建国家の流儀と大きく異なることを示す必要があるだろう。

コーポレートファイナンス 戦略と実践

田中慎一、保田隆明『コーポレートファイナンス 戦略と実践』(ダイヤモンド社、2019年)はコーポレート・ファイナンスの実践的な解説書である。会計からM&A、株主還元政策、IRなどファイナンスの話題を幅広く取り上げる。現実と乖離した勉強になりがちな会計書とは異なる実践的な書籍である。
本書にはコーポレートファイナンスが企業の成長にとって重要という問題意識がある。「はじめに」で以下のように述べる。「いいものを作れば売れる時代は終わりました。絶妙なタイミングで最適な資金調達を行い、大胆かつ緻密に練られた投資戦略を実行する、そうして初めて企業は移り気な顧客に長く愛される存在となります」
これは昭和の日本的経営から転換すべき点である。日本的経営の擁護者は、財務や株主重視の経営を目先の利益を追求する強欲資本主義と批判しがちである。しかし、財務や株主を重視した経営の方が市場という第三者の視線を重視している。「いいものを作れば売れる」という昭和的なモノづくりの発想の方が傲慢な押し付けである。
面白かった内容は「会計をファイナンスに生かすためのキャラクター分析」である。企業の性格を財務指標から分析する。最初に見る指標は総資産利益率(ROA; Return On Assets)である。これは企業が投下した全ての資産を使って、どれだけのリターン(利益)を得たかを示す。「営業利益/総資産」で求められる。
2016年度の外食チェーン3社のROAは吉野家1.6%、日高屋17.5%、ペッパーフードサービス12.0%。吉野家は苦戦しており、日高屋やペッパーフードサービスは優良である。その要因として日高屋は営業利益率、ペッパーフードサービスは総資産回転率が高い。
日高屋の営業利益率の高さは原価率の低さ(粗利率の高さ)に由来する。「ちょい飲み」という、「飲み」のメニューに力を入れている。アルコール類はフード類に比べると利幅が厚く、粗利率を押し上げている。
これに対してペッパーフードサービスの食材費は55.3%と外食業界の標準30%よりも高い。肉の量と質を重視し、それ以外の要素を削ぎ落し、代わりに回転率を上げることで固定費率を下げて利益を生み出している。これは肉を食べたい消費者にとってもコスパが高い。企業は様々な戦略で利益を出しており、単純に品質と価格が比例するとはならない。

実践!インサイトセールス AIに駆逐されない営業力

高橋研『実践!インサイトセールス AIに駆逐されない営業力』(プレジデント社、2018年)は従来型の営業から顧客のビジョンを実現するインサイトセールスへの転換を主張するビジネス書である。訪問型営業はAIに取って代わられる職業とされる。この時代に存在意義のある営業がインサイトセールスである。

インサイトセールスは顧客の経営理念や事業ビジョンを徹底的に傾聴し、その内容をしっかりと理解する。その上で、そのビジョンを実現させるのに必要な課題解決策を提案する。課題解決と言えばソリューション営業を想起するが、本書はソリューション営業を一時代前のものとして明確に区別する。

ソリューション営業は事業者が一方的に設定した課題解決提案である。年金代わりの安定収入との名目でマンション投資の迷惑勧誘電話をかけることもソリューション営業と強弁することができる。そのようなものはAIでも実現可能である上、顧客への価値もない。相手の意思の尊重を忘れ、売り上げだけを求めることは、人の気持ちを踏みにじる行為である。

これに対してインサイトセールスは顧客の価値観に沿った営業である。これができていなければソリューション営業と言ったところで、良い商品だから売れて当然という高度経済成長期のプロダクトアウト的な発想と大差なくなる。このインサイトセールスはCustomer Successの発想と重なる(ニック・メータ、ダン・スタインマン、リンカーン・マーフィー著、バーチャレクス・コンサルティング株式会社訳『カスタマーサクセス サブスクリプション時代に求められる「顧客の成功」10の原則』英治出版、2018年)。

本書は具体的な営業方針も述べている。アポイントメントに際しては訪問の目的を正しく伝える必要がある。「ご挨拶に伺わせてください」といった曖昧なものは駄目である。この「ちょっとご挨拶だけ」はアメリカ人のビジネスパーソンから無駄な時間と嫌われる(小林真美『出世する人の英語 アメリカ人の論理と思考習慣』幻冬舎、2018年)。

このように私は本書にグローバルな感覚との重なりを感じた。一方で本書はインサイトセールスが刺さりやすい人々を創業社長や一族経営の後継者、地元密着を掲げる企業のトップとする。保身だけの公務員的な組織人に刺さりにくいことは理解できるが、随分ドメスティックな印象を受ける。一族経営や地元密着企業はビジョンが分かりやすいため、インサイトセールスの難易度が低いという事情はあるだろう。インサイトセールス自体は、もっと普遍性があると考える。

アフターデジタル

藤井保文、尾原和啓『アフターデジタル』(日経BP、2019年)はオフライン行動が全てデジタルデータとして取得され、オフラインがデジタル世界に包含される世界のビジネスの変化を論じた書籍である。このオフラインがデジタル世界に包含され、オフラインとオンラインの主従関係が逆転した世界をAfter Digitalと本書は呼ぶ。

今やモバイルデバイスやセンサーの普及し、行動データを高頻度で取得することが技術的に可能になった。現実に中国ではアリペイなどのモバイル決済やシェアリング自転車が普及しており、日本より先行している。インターネット時代に「リアルのコミュニケーションも大事」というバーチャルとリアルの二元論が唱えられた。これに対して、中国の先進企業はオンラインとオフラインを融合し一体のものとした上でオンラインにおける戦い方や競争原理を考える。

本書はオフラインとオンラインの主従関係が逆転する前をBefore Digitalと名付け、逆転した後をAfter Digitalと呼ぶ。紀元前をBefore Christとする英語の発想である。生半可な英語知識の日本人にはAfter Digitalをデジタル後の世界と解釈して、デジタル偏重を見直す先祖帰りした世界を想像する人がいるかもしれない。しかし、真逆の意味である。

このような生半可な英語知識では真逆の意味に解釈する危険は他にもある。Free DrugやDrug Freeは依存性薬物からの自由であり、依存性薬物を排除した世界である。しかし、自由に依存性薬物を摂取できる世界と誤解する日本人がいるかもしれない。

After Digital時代のビジネスは、オフラインからオンラインまで生活の至るところに顧客接点を作り、顧客の行動データを取得する。その行動データを活用し、顧客に対して最適なタイミングで最適なコミュニケーションを取り、商品・サービスの購入へと導く。消費者のニーズを無視したマンションだまし売りや消費者の時間を奪うマンション投資の迷惑勧誘電話は時代遅れの営業手法になる。

伊藤元重『百貨店の進化』

伊藤元重『百貨店の進化』(日本経済新聞出版社、2019年)は売り上げが減少し、シェアが縮小している百貨店の方向性を指摘する。今や消費者は豊富な情報を持ち、目的志向が強くなっている。昭和の販売方法や営業方法では消費者は動かなくなっている。

百貨店の地位低下の理由は明白である。第一に百貨店だけの時代ではなくなった。コンビニエンスストアやドラッグストア、紳士服専門店、SPA、大型モールなど消費者の買い物の選択肢が広がった。特に大型専門店の躍進で、高級品は百貨店で買うことが唯一の選択肢ではなくなった。

第二に大量に販売するマスマーケティングの行き詰まりである。消費者の嗜好が多様化し、流行品を売りまくる時代ではなくなった。

どちらも昭和の感覚のままではビジネスが続かず、百貨店ならではの価値を打ち出す必要がある。本書は効率性を強調し過ぎた売り場に魅力はなく、買い物を楽しむリアルな空間としての店舗を指摘する。

しかし、これでは大型モールと差別化できないと考える。買い物の楽しみというエンターテイメント性では東京ディズニーリゾートのイクスピアリには敵わない。百貨店という日本語からは何でも揃う効率的な店舗の方向性もあり得るのではないか。

もう一つ本書が指摘する方向性はB2CからC2Bへの転換である。百貨店には元々、外商部門があり、顧客一人一人を区別し、それぞれの顧客に合った対応をすることは得意である。情報技術を活用することで、人的コストをかけずに、富裕層以外の消費者に「個客対応」を広げることができる。

とは言え、悪い意味での「個客対応」もある。東急百貨店では認知症の高齢女性(78)に約1100万円分の婦人服を売りつけていた。認知症をカモにした過量販売・次々販売・多額販売である(林田力『東急不動産だまし売り裁判6東急百貨店だまし売り』Amazon Kindle)。お得意様が都合よく買ってくれる人を意味するならば、賢い消費者の百貨店離れは必然になる。カスタマーサクセスの発想が必要である。

その意味でC2Bというキーワードは魅力的である。店から顧客への流れから、顧客から店への流れである。「個客対応」を超え、顧客Customerから店Businessに対するアクティブな働きかけを可能にする。もっとも、個客対応以上のC2Bの具体的イメージは明確ではない。ここが課題になるだろう。

「ポッキー」はなぜフランス人に愛されるのか?

三田村蕗子『「ポッキー」はなぜフランス人に愛されるのか? 海外で成功するローカライズ・マーケティングの秘訣』(日本実業出版社、2015年)は海外で受け入れられた日本の菓子を紹介し、そのマーケティングの秘訣を解説する。現地に最適化した味や価格が海外成功の鍵になる。

江崎グリコのポッキーはフランスではミカドという商品名で販売されている。味が濃厚な大人のイメージで販売している。ブランドイメージの統一という常識的な手法の真逆がヒットした。ブランドイメージの統一は企業側の事情である。現地の消費者感覚の方が大切である。

ポッキーはチョコレートとスナックから構成されるが、スナックの印象が強い。大人向けの菓子で勝負するとは大胆な挑戦である。菓子はコモディティ商品であり、外国商品が新規参入する場合は通常とは異なるジャンルで攻めるのかもしれない。

本書は日本の菓子の海外成功例を紹介するが、即席麺に比べればまだまだであり、もっとポテンシャルはあるとする。海外展開は、企業の活力を養い、未来を担う人材を育成するメリットがある。そこでは海外市場への最適化を図ることのできる非ガラパゴス的な人材が必要とする。良いものを作れば売れるという高度経済成長的な発想は足枷になる。

一方で本書は日本の菓子の完成度を世界に広げるために、オールジャパンの取り組みを指摘する。これはどうだろうか。本書が紹介した海外成功した菓子は平均的な日本の品質を持っているから成功した訳ではない。そのように言ってしまうならば本書のタイトル『海外で成功するローカライズ・マーケティングの秘訣』の存在意義がなくなってしまう。

日本のアニメは素晴らしいコンテンツであるが、クールジャパンとなると税金吸い込み利権に見えてしまう。日本では官僚の干渉の少ない産業が国際的競争力を持っている。オールジャパンの発想も昭和のMade in Japan感覚の残滓ではないだろうか。

ユニコード戦記 文字符号の国際標準化バトル

小林龍生『ユニコード戦記 文字符号の国際標準化バトル』(東京電機大学出版局、2011年)は文字コードの国際標準であるUnicode策定に関わった著者の記録である。個人の体験談として書かれており、生々しい。一方でUnicodeそのものを学習したい人には不向きである。国際的な会議に参加したり、プレゼンしたりする人にはジャンルを問わず、参考になるだろう。

タイトルには戦記とあり、著者は戦っていたことになるが、どのような立場で誰と戦っていたのかは明確ではない。冒頭でパックスアメリカーナ(20頁)や情報帝国主義(28頁)というキーワードが出てくる。ここからはグローバリゼーション批判の立場に見える。

序盤ではルビを定義するルビタグをめぐる戦いに敗北したとある(44頁)。しかし、著者らの意見は注釈に入れられている。何が不満か分からない。外国人が日本語のルビを決めることはけしからんという発想であるとしたら偏狭である。本書自身が後半で以下のように指摘している。「日本の言語・文化については日本人がいちばんよく知っているという思い込みは何とかしてもらいたいものだ」(174頁)

むしろ著者はグローバルな感覚を持った人物として、日本の官僚的体質が矛先になる。日本人の問題として組織を代表して来ているのに「持ち帰って」と答えることがある(60頁)。これは決断が遅れるデメリットがある(61頁)。この決断が遅れるとは全体の決定が遅れるだけでなく、相手を待たせるという不利益がある。

また、本書では「同じ日本人だから」という情緒的な仲間意識で要求を通そうとする日本的コミュニケーションに嫌悪感を覚えたとする(67頁)。同質性を前提とした集団主義は、ダイバーシティの21世紀には時代遅れである。

著者の論理的明晰はカウンターの職員にも発揮される。職員に「少々お待ちください」と言われた時に「キミの言う少々とは、一分のことか、一〇分のことか、一時間のことか」と尋ね返したという(128頁)。問題点を曖昧にしない。

著者の戦った相手は日本国内のステレオタイプなユニコード批判がある。漢字について知らない欧米中心の統一規格で、日本と韓国と中国の漢字を一緒くたにしてしまうという誤った認識に基づく批判が起きていた(93頁)。その批判の背景はJIS漢字では森鴎外の「鴎」の本当の字体(シナカモメ)が使えないという問題であった。これはJISの問題であって、ユニコードはとばっちりである。

本書は、字形の異なる文字を全て独立した文字として文字コードを割り振ることを批判する。異体字を紐付ける電子的なメカニズムを設けることを主張する(101頁)。これによって浜を検索する際に、浜と濱の両方の電子テキストをヒットできるようになる。本書の主張は電子データとしての文字利用に適っている。

この争いを本書は文化と工業規格の争いと表現するが、今やコンピュータが出発点のクリエイターも多い。文字のために活字を作っていた前時代の業界感覚と情報時代の感覚との争いだろう。
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